LEGENDs. Vol.1 阿部肇監督 #2 オアズパーソンとしての歩み(全3回)

※本記事は「LEGENDs. Vol.1 阿部肇監督」の全3回のうちの第2回です。

目次

  1. 1、選手時代。
  2. 2、コーチの道へ。

1、選手時代。

コ:続いては、阿部さんの選手時代について教えてください。

阿:原点からということですね。中学高校は競技としては真面目に部活をやっていなくて。
高校は福島県で、ボート部に所属していました。福島全体はとても強くて、毎年U19日本代表もいましたし、U19の強化担当の先生もいたんですよ。
私の部活は、顧問がバレーボール部から来たばかりで、生徒と一緒に練習を工夫してくださる先生でした。いわゆる「楽しくやっている部活」でしたね。

大学進学後、寮生活の方が安く済むだろうということでボート部に入りました。入部当初はスポーツ推薦の仲間に比べると実力差が明らかで、かなりへなちょこでしたが、やるならちゃんとやりたいと思っていました。多くのよき先輩にも巡り合え、競技力を飛躍的に伸ばすことができました。
当時の中大はOBの監督コーチがいたのですが、大事な大会の時にしか来なかったので、学生は自由に活動できていました。そういう環境にあったので、いろいろなことを自分たちで工夫してできていたんですね。

また当時は社会人のボート部が低迷していて、全日本も大学クルーが勝っていました。
2年生の頃に、自分が4年になる時にロスのオリンピック(1984年)があることを意識し始めました。当時の選考システムでは、全日本で勝てばオリンピックに行けると知って、学生同士の戦いなら負ける訳にはいかない、そして当時、百戦錬磨、連戦連勝の東大に勝てるように頑張りました。
結果、勝つことができ、周りからは「素晴らしいクルーだ」と言ってもらえました。

でも、いざオリンピックに行くとコテンパンに負けて。
その時に先輩と話している中で、負けている理由は、ずっと見てくれるコーチがいないからだと考えました。
他の国にはクルーコーチがいる中で、もしコーチがいればもう少しはパフォーマンスが上がったのではと感じたんです。
そこで「将来自分たちがボートを教えられる存在になれたらいいね」と話していたんですが、今思えばそこがコーチとしてのスタートでしたね
私は幸運なことに日本の中では体格にも恵まれていて、日本でトップクラスのエルゴタイムも出していました。
まずは自身のパフォーマンスを上げながら、独学でしっかり勉強をすることが将来的にコーチングの強みにできると考え、なるべくボートに専念できる環境を選んで進んできました。

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コ:ロス(1984年)は付きフォアで出られていたんですよね。その後も2回オリンピックに出られていたと思うのですが、そちらはエイトで出られていました。現在の日本代表がエイトでオリンピックに出られていないと思うのですが、当時はなぜ出場できていたのでしょうか。

阿:「エイトが大事」という考えが根強かったのが大きいですね。協会としてもなんとかエイトを強化しようとしていました。
また、方針としてもエルゴスコアなど個々のパフォーマンスアップが必要であることが明確でした。そのうえでしっかりと選考をしようとなっていて、全国から相当な人数の選手が選考に参加をして、すごく活気がありましたね。
ソウル(1988年)の時は選抜クルーで出て、流れは良かったのですが、結果は今一つでした。
その後、国際競技力向上のために、一人でも多くの人が国際レベルの経験を積むことが大切という提案をして、派遣種目をダブルやフォアにしてもらって世界選手権に出場させていただきました。今思えば結構図々しくやっていましたね。また阿部かと言われながら(笑)。

バルセロナ(1992年)では5分40秒を切ることが目標で、実際はほぼ無風かちょっと逆くらいで5分41秒でした。その時の優勝クルーのタイムが5分30秒と少しくらいで、つまり7、8秒くらいの差がありました。大きな差ではあるのですが、クルーとしてのパフォーマンスは相当高かったと思います。

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2、コーチの道へ。

コ:なるほどです。そこから引退され、コーチを始められました。現在の仙台大学のコーチになられたところまでの経緯について教えてください。

阿:当時は、中大のコーチが9年目、関西電力のコーチが8年目。両チームとも結構上手くいっていました。2001年には提案していたナショナルチームにU23のチームが立ち上がって、担当させていただくことになりました。

その時にちょうど東北大学のOBの方が「宮城をボート中興の地に、そして東北大学のライバルを作りたい」という情熱をもっていらっしゃって、それが仙台大学の理事長に伝わったそうです。そこで、そのOBの方に「来てみないか?」と声をかけていただいたんです。

最初は断りました。中大でのコーチングが充実して楽しかったですし、全日本選手権でも社会人チームと互角に戦えるチームに育っていましたから。

その後、もう一回面談に来てくれと・・・。だったら自分がやりたいことの条件(7年刻み×3の21年に渡る強化計画や創部したならば大学経営に左右されず活動を継続することなど)を出して、それを受け入れてくれるなら行こうと考えていました。
当時、私は38歳だったんですが、「60歳で定年するまでチームづくりをさせてくれますか?」と提示したんです。
どうせなら駄目元で提案しようと思って行ってみたら、そんなに情熱を持ってやってくれるのかと言われてしまいました(笑)。

コ:そうだったんですね(笑)。その21年の計画というのは、今はうまく進んでいるのでしょうか。

阿:はい、集ってくれた選手のおかげで今のところ前倒しで進んでいます。
最初の4年間で、2005年の世界選手権に代表を出すとか、小艇での日本一を出すとか、選手たちがどんどん前倒しで結果を出してくれたので、順調ではあります。
ただ自分も年齢を重ねて頭が固くなってきますから、最後の7年は次代のコーチ育成も考え、アシスタントコーチをつけて取り組みたいと思っています。これに関しては人材の雇用なので、ボート部の一存だけでは難しい部分が多いですね。
卒業生にかかわらず、ここでコーチをしてくれる人を探して、一緒にやりながら引き継ぎたいのですが、なかなかできていません(笑)。

ーー第3回に続く!

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