東京パラリンピック ボート日本代表 西岡選手 前編「続ければ、拓ける」

今年開催された東京パラリンピックに出場を果たした西岡選手。
記事前編では、西岡選手がボートを始めたきっかけ、パラリンピック出場までの道のりについて伺いました。

水上の世界へ

ボートを始めたのは2007年。知人からの紹介で、地元の広島県でボート選手としてのキャリアをスタートさせた。2008年の北京パラリンピックからパラボートが正式種目に採用されており、日本でもパラボートの育成及び強化が開始された。

西岡選手もパラリンピック出場を目指して、未知のボート競技の世界に飛び込んだ。

西岡選手
「弟がボートをやっていたり、通っていた高校にもボート部があったりと、思い返してみれば自分にとっては身近なスポーツだったかもしれません。ただ実際にボート乗った経験やレースを目に舌はことはなく、決してボートに詳しいわけではありませんでした。当時は部活帰りの弟の姿を思い出して、しんどそうにしていたなという印象を抱いているくらいでした」

そして平日に仕事をするかたわら、土日に練習する生活がスタートした。

西岡選手
「ボートを始める前から市民マラソンなどには参加していて、体を動かす習慣はありました。しかし、ボートを始めてみると、道具を使って行う競技であるところに難しさを感じました。体ひとつで走るマラソンとは少し違う感覚でした」

ボートでは、ひとりで2本のオールを持つスカル種目と、ひとり1本のオールを持つスイープ種目がある。西岡選手が今回パラリンピックで出場したフォアと呼ばれる艇は、ひとり1本のオールを持ち、片側を2人ずつの合計4人でボートを漕ぐ種目だ。

スイープではグリップの先端側を持つアウトハンド、内側を握るインハンド、それぞれに別の役割がある。

西岡選手
「まずアウトハンドはオールに力を伝えるのが主な仕事です。そしてインハンドは、漕いでいない時に水との抵抗を軽減するため、手首を起こしてオールを90度回転させるフェザーターンという動きを行います。私は25歳の時に事故に遭い左肘から先にまひがあります。本来両手で分担して行う動作をアウトハンドの右手一本で行っているので、右手に大きく負担がかかります。始めた当初は何度か右手が腱鞘炎になって、とても苦労しました」

ボートを始めた当初の苦労をそう語る西岡選手。自分の体に合わせて道具を改良するなど、トレーニング以外にも工夫を凝らした。そして今では”道具への知識なら誰にも負けない”と自身でも語るほどの知識を身につけた。

「少しでも速く進めるためにはどうすればいいか。」
そのシンプルな問いと共に、競技に向き合い続けた。そして西岡さんは次第にボートの持つ魅力に取り憑かれていくことになる。

ボートの魅力、そして辛さ

西岡選手が専門としているスイープ種目では、片側を漕ぐひとりの漕手で競技が完結する事はない。ひとり乗りが存在するスカル種目とは違い、必ず2名以上のクルーでボートを進めるのが、ひとつの特徴でもある。
“クルーボート”とも呼ばれるその種目の魅力について、こう語る。

西岡選手
「仲間と共にボートを進めるクルーボートでは、上手くメンバーの力が合わさった時一気にスピードが上がるのが魅力です。艇が華麗に水上を滑っていく感覚があって、そこが一番好きな部分です。それからボート全般においては、水上でしか見れない景色があるところも気に入っています。普段は行けない場所にボートならいける。ボートを通して別の世界に行ける感覚があって、そこも気に入っています」

“ボートは面白い”
仲間と共に体を鍛え、自身で道具の研究を深めていくと、その思いは更に強くなった。

しかし一方で、パラリンピックを目標とする中、国際大会で結果を残す事は難しいというのも事実だった。2008年の北京への出場を目指し、日本代表もミュンヘンで行われた予選大会へ出場したが、目標を達成することができなかった。西岡選手はその後も、国際大会で世界との差を感じていたという。

西岡選手
「特に記憶に残っているのは、2010年の中国の広州で行われたアジアパラ競技大会です。そのレースでは、スタートを失敗してしまったこともあり、自分たちの練習してきた漕ぎが全くできませんでした。他国とのタイム差も大きく、力の差を感じていました」

さらにはボートを続けることの難しさにも向き合うことになる。クルーが揃ってようやく練習が成り立つボート競技。日本ではまだまだマイナーな種目ということもあり、環境を整えるのも容易ではない。

2010年に出場した大会以降はクルーが揃わず、2012年のロンドン大会の予選では混成フォアのクルーを組むことすら叶わなかった。

そんな状況の中、一人で黙々と漕ぐ日々が約5年ほど続いていた。
ボートを続けるかどうか迷いが生じるのも当然の状況だ。
西岡選手曰く、”出口のないトンネル”のように感じたという。

続ければ、拓ける

2010年の中国での大会でも、世界との差を感じた西岡選手。次のロンドン大会へ向けて2年ほどあるが、メンバーが集まるかどうかも不透明な状況だ。

“やはり難しいのだろうか。”

パラリンピックという心躍る目標は、次第に自分にとって重荷になっていた。
ボートを始めてから楽しさを知っていく一方で、タイムで勝敗がはっきりと決する厳しさや、継続的なトレーニングを積むための環境維持の難しさにも思い至るようになった。

少し考えただけでも、諦めてしまう理由はいくらでもあった。

中でも、社会人になってボートを続ける難しさ。30代後半をむかえていること。
避けようのないその二つの悩みが、西岡選手へ重くのしかかっていた。

ボートが広く知られていないこの日本では、多くの人が部活動でボートに携わったのち、社会人になればその世界から離れてしまう。
自分の周りにもボートを続ける人が減ってしまった。今もいつ来るともわからないチャンスのために、孤独に体を鍛え続けている日々だ。

それからボートのスピードには体力が大きく関係する。自分ももう若くはない。少しでも手を緩めると、無慈悲にタイムを突きつけてくるエルゴのモニターを思い出し憂鬱な気分になった。

***
その日は、テレビで全日本選手権を観戦していた。
社会人に混じって大学生クルーの躍進も目立つように感じ、それが自分の二つの悩みを証明しているようにも思えた。気が付けば若い選手の活躍を目で追ってしまう。

各種目、順にレースが放映されていた。番組は中盤に差し掛かり、無しフォア優勝クルーが決した。
“この種目も、きっと若い選手が” と思いかけたとき。アナウンサーが”最年長記録の快挙”だと告げる。優勝クルーの選手のひとりが、47歳だと気がついた。自分より10歳近く年上だ。

“年齢は関係ないよ”

彼から直接言われたわけではないが、そう鼓舞してくれているように感じた。
そして西岡選手は後ろ向きだった心に、新しい気持ちが芽生えていることを発見する。

“パラリンピックに出場するまで、ボートを辞めない”

続ければ、きっと道は拓ける。その決意が固まった瞬間だった。

新天地・そしてパラリンピックへ

新たな決意を胸にボートに取り組む西岡さんのもとに、ある出会いが訪れた。その出会いが西岡選手を更なる成長へと導くことになる。

西岡選手
「2013年に参加した大会の会場で、当時障害者のボートチームの設立を企画していた、小原さんとお話しました。まずは一度琵琶湖に来てみて、と誘って頂いたのがご縁の始まりでした。その後、2014年に琵琶湖ローイングCLUBが設立され、2015年から本格的にメンバーとして自分も参加するようになりました」

水上でボートを漕ぐ日々を取り戻し、クルーボートの楽しさを思い出すことができた。今まで以上に練習にも張りが生まれ、他のクルーへ感覚を共有したりすることが、自分自身への学びにもなった。そうして琵琶湖でさらに成長を遂げることになった。

また同時期に代表活動でもリオ大会の予選レースへの参加が叶った。本大会への出場こそ逃したが、代表クルーとしての活動が再開され、次の東京大会へも良い形で夢を繋ぐことができた。

そして日本代表は2019年にオーストリアで開催された世界選手権に出場。上位8カ国が東京パラリンピックへ出場権を獲得することになっていたが、日本は14位で出場権獲得を逃した。

また2021年6月にはイタリアで開催されたパラリンピック最終予選に挑んだ。
上位2クルーが本大会出場となるが、結果は6位。健闘したものの、この大会でもパラリンピックへの出場権を獲得するには至らなかった。

着実に力をつけている手応えはあった。しかし心では、パラリンピックへの出場権を獲得できなかった悔しさでいっぱいだった。


そんな西岡選手たちのもとに、ある知らせが届く。
それは日本がパラリンピックへの出場権を獲得したというものだった。

今回のパラリンピックでは、上記2大会で参加権を獲得した10カ国以外にも、国際ボート連盟が推薦し選出される2ヵ国の枠があった。

推薦枠は21年の世界最終予選への出場国の中で、タイム、地域性の片寄り等を考慮して決定される。既に出場を決めていた国の中にアジア及びアフリカ勢が含まれておらず、最終予選にはアジアからは日本、アフリカからはナイジェリアが参加していた。最終予選で日本はナイジェリアより上の順位を獲得していたこともあり、日本が推薦されるに至ったのではないかと推測されている。

パラリンピック出場決定の知らせをはじめて聞いたときは、信じられないという気持ちが強かったという。

西岡選手
「知らせを聞いたときには、メンバーの中でも現実味がなく、信じられないという感覚でした。メンバーのグループラインなどでも出場決定を受けて大いに盛り上がっている内に、だんだん実感が湧いてきました。本当に苦しい時期もありましたが、ボートを続けてきて良かったなと思えた瞬間でした」

“パラリンピックに出るまでは、ボートを辞めない”
そう誓った日から、10年以上もの長い道のりだった。

続ければ、拓ける。
今年50歳を迎える西岡選手が、ひとつの夢を叶えた。

後編では・・・

パラリンピック出場決定の歓喜を味わったクルーは、次第に”パラリンピックで何を表現しよう”ということを考え始めました。後編では、パラリンピックに向けた想いや、レース本番を振り返ります。そしてこれからパラボートを始めようと思う人へのメッセージもいただきました。

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